昭和50年09月24日 朝の御理解



 御神訓 一、「神の教えも、真の道も知らぬ人の哀れさ。」

 これは神様ならずとも、私ども信心させて頂くものでも、日々こうしておかげを頂いておることの有り難さ、神恩報謝の心が強まってくれば強まってくるほど、信心というものが有り難いものだなぁと思えば思うほど、信心のないいうならば信心の道も知らない生き方をしておる人達を見ると、確かに気の毒だなぁあわれな事だなと思われます。まぁ今は調子が良いからあれでやっていきよなさっとでも、ほんとにまあいうならばこちらからそれを見ておると、ね、破れた橋を渡っておられる様な感じがする。
 いつ落ち込みなさるやら分からん。もう救いようがない。そんな感じが致しますね。ましてやこれは神様の目からごらんになったら、ね、人間を天地の親神様は氏子といわゆる子供としての見方をなさっておられるのですから、信心をしておかげを頂いていってくれるのは親もやれ嬉しいでしょうけれども、それとは反対の生き方をしておる氏子をご覧になったときに、ほんとにあわれな事だという事は、あわれもうあの人があわれというんじゃなくてね、これは神様のいうならば悲しみです。ね、
 神様の悲痛なまでの、このあわれな事だと、是はよそごとではなくて親自身の是は悲しみの、表現だという風に思いますね。それで私共がこうして真の道を分からしてもろうて真の道のよる幸せを頂いていくという事が、神様の願いでございますから、ね、この神様の願いに答えていく、だから私の頂いておるという事は、とりもなおさずそのまま親孝行だと言う事になるのです。
 先日ある教会で熱心に信心をなさっておられる方が、もう合楽の先生にお願いするよりはほかないと言うて、夫婦でお願いに見えられました。朝方起きられたらお掃除をしておるとお父さんの机のあのう、手紙が置いてある。でその息子さんの手紙。家で休んどるもんとばっかり思うておったら、あのした所が、書置きのような手紙が置いてある。いなかったわけ。そこでビックリしてから中を開いてみたら、色々と親が自分の言う事を聞いてくれないと言う事がもとであります。ね、
 そして最後ん所にね、僕はひょっとすると死ぬかもしれんと書いてある。ほんとにそればってん親として、もうこんな痛手はないですよね。二十何年間いうならばほんとにまあ、一人息子さんですからそれこそ蝶よ花よで育てて、ね、そして二十いくつになって、自分の言う事を聞いてくれんからと言うて家出する。そして家出するだけならまだよい。けども、最後に僕はひょっとしたら死ぬかもしれんと書いてある。ね、
 ほんとに親の思い、親の悲しさというものは、ほんとに私はそれを読ませて頂いてから思いました。親ちゃどうしてこげんふの悪いもんじゃろうかと思うた。それからお願いをして帰られました。それから心当たりをあくる日あっちこっち探されてけれどいけん。見当が付かない。そこでひょっとして博多、どっか博多の駅に行かれました。お父さんが。そしたらね、向こうの方からホームのね、息子がずウっと歩いとったという。
 もうそん時の喜びというものはね、もうそれこそあのここを通ってははならんとこじゃけども、そこを通って向こうヘ行ってもう息子もビックリした。神様のご都合お働きのその素晴らしさにね、もうそれこそそこにどんずわってお礼を申し上げたいごとある気持ちだった。そして話を色々聞かせて頂いて、ね、お前も折角出て来たっちゃから、やっぱりあのどこまででん行かにゃいくまいから、親子でご本部参拝をしょうと言うて、ご本部参拝して帰ってきたと言うて昨日はお礼にでて見えました。
 まっやれやれよかったけれども、私は最後に死ぬかも分からんともう、とてもこれはもうね、私はほんとにもう身につまされました。神様にその事をお願いやらお礼やら申させて頂いておりましたらね、「ハイジャック」と言う事を頂きました。ね、最近流行りますね。大きなジャンボ機がいうならば、何人かの意志をその通すために運転手、ね、操縦士に俺の言う事を聞かなかったら、そのというわけです。
 そしてその飛行機の行く所ではない、ね、自分の思う所に、そのつけなければと言うてピストルを突きつけたり、ね、短刀を突きつけたりして、そう言う様なものだと言う事。ね、子供はなんでもない、まあそれこそ親にちっと心配さして、その自分の思いを通させようという、それこそまあ若気の至り、簡単な事だろうけれどもです。ね、そこにいかんなら色々妥協して話し合いもできようけれど、けれども最後にです、ね、僕は死ぬかもわからんと言う事は、もう親に凶器を突きつけとるようなもんですよね。
 そして私はそれから色々思わせて頂いたんですけれども、とても神願成就とか、ね、世界に真の平和とか、私どもが祈り願わせて頂いておる神様の願いが成就すると言う事を、まぁ一生懸命願うけれどもまずは、ね、そういう親不孝な人間がおる限り、神の願いと言うものは成就する事はないなと私は、改めて思いました。祈っておる願っておるけれど、いつも天地の親神様にいうなら、凶器を差し向けて、ね、胸に突きつけて例え信心をしよっても真の道を分かっておってもです。
 ただ信心しておかげを頂くと言う事だけが信心であるならばです、自分の言う事だけを親に聞かせよう。親の言う事は聞くまいという生き方の、理屈は同じ事です。そうでしょうが。親の言う事は聞こうとしない、ね。親の思いを悟ろうとはしない。それに添い奉ろうという思いもない。そしてただ自分の意志、自分の願いだけをです、ね、貫こうとしておる。そして言う事を聞いてくれるか聞かないかと言わんばかりの、こりゃなら信心しておっても、同じような事が言えると思うです。
 これじゃもうならそのジャンボ機が例えば、アメリカならアメリカと言う所が目的で在るならばです、そのアメリカにはとてもとても到達し得ないと言う事です。ね、やはり短刀突きつけられておっても、やはり可愛いい氏子に違いはないのですから。親の思いは右に行こうと思うけれども、これが短刀突きつけて左に行けとこう、言うておるのですから。ね。こりゃもうほんとに信心の道も真の道もいうなら、知らぬ人、とここでは言うてあるけれども、信心を頂いておりましてもです、ね。
 ただ自分のねがいだけを、自分の願望だけを神様の前に、どうぞただお願いしますというだけで、神様の思いも分かろうともしない、神様のねがいは聞こうともしないで、ただ自分のねがいだけを押し付けておるような願いはです。それは、ね、ハイジャックにもひとしい私は考え方だ、生き方だと思います。矢張り神様はそれでほんとに自分の、親の言う事は分からん、我が言う事ばっかり言うちからと、矢張り悲しい思いをなさる事であろうとこう思います。
今日はね、神の教えも真の道も知らぬ人のあわれさ。真の道も知っておる。信心もいただいておる。けれども神様の思いを分かって、神様の思いに添い奉ろうという生き方でない限りです矢張り、ね、哀れな氏子じゃと言う事になるだろう。またそれをその言葉のいうなら言外の言、そのあわれさという言葉の裏を頂いたら、ね、神様の悲しみと言う事になるのじゃないでしょうか。
 折角信心をさせて頂くのですから、ね、ですからほんとに神様の機感にかのうた信心をさして頂きたいと言う事は、神様の心に添い申し上げたいと。そういう生き方から、それこそあれも成就、これもかのうたと言う様なおかげを頂いてこそ始めて、神様の喜び。どれだけ沢山の人が神様の思いに反しておるか分かりませんから、せめて金光教の信心をするものだけ、せめて合楽にご神縁を頂くものだけぐらいはです。
 その辺の所を行としてです、ね、神様の心に添い奉る信心を愈々深くさせて頂いて、沢山な人が悲しませておるなら、せめて合楽の信者だけぐらいは、神様に喜んでもらえれるような、安心してもらえるような信心を志さなければいけないですね。今日私はここの、知らぬ人のあわれさと言う所をこれは神様の、はあもうあん奴はあわれな奴じゃある、信心のなかもんばっかりは、しょうんなかと言った様なものではなくて、ね、それはそのまま神様の悲しい心の表現だというふうに感じました。